10月2日、いよいよ本屋店舗の工事が始まりました。

福山市の東深津町に『風の丘』という、今年オープンしたカフェ・エステ・レンタルルームスペースがあります。

場所がよくわからないという方には、暁の星女子中学・高校の正門の隣と言えば、少しわかりやすいかもしれません。

その『風の丘』スペースの一角を借りて、本屋「UNLEARN]は、来年1月開店を目指し、今日10月2日から店舗改装の工事が始まりました。

間借りするスペースの外側から、管理人の高橋さんと写真を撮りました。この窓は、ふさいで壁にします。

福山市在住のイラストレーター藤岡真穂さんに、出来上がりをイメージして、すてきなイラストを描いてもらいました。入り口は右側です。真ん中下側にレジがあります。そして、半分つながっている左の部屋が、古本プラスギャラリーコーナーの予定です。

工事の進捗状況を、またアップしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳永 進の本 その2『「いのち」の現場でとまどう』

「その1」でも書いたように、徳永進さんは鳥取県の「野の花診療所」という小さなホスピスのお医者さんだ。若いころからずっと本を書き続けてきたので、もう十数冊にもなるはず。ふつう、それぐらい書き続けていると、誰でも同じことの繰り返しにもなったりするのだが、今年の6月に出た新刊『「いのち」の現場でとまどう』を読み、くり返しどころか、現場に徹することからくる融通無碍のユーモアといったものや、ある種の凄味さえ感じさせる中身になっている。

たとえば「がんは告げるべきか、隠すべきか、どちらが正しいか」という問いがある。私たちの常識としては、この問題はかつては医療の中での大問題であり、しかも結論はわかりきっていて、医療者側も家族も、それを患者本人にいかに隠すかということに、多大なエネルギーを注いできたはずである。それが、いつの頃からか、インフォームドコンセントの流れなどもあり、今は「正しいかどうか」などとは関係のないところで、なしくずし的に本人に告げることがほぼ当たり前のことになっているのではないか。

しかし、徳永さんはこう言うのだ。

「問いそれ自体が間違っていることに気がつきました。」と。

「問いに振り回されて、正しい答えがあるのは当然であるかのように、〇だ×だ△だと答えを探そうとするのは、学ぶ者の『劣化』『質の低下』という事態です。」

「誰も『告げる』も『伝える』もしていないのに、いつのまにか『伝わる』。がんの告知というのは、コミュニケーションのなかでも特殊なケースですが、そこにも一般のコミュニケーションと同じように、『自ずからなる』自動詞の豊かな世界があるということを知りました。」

また、「安楽死」をめぐるやりとりも重要だ。「野の花診療所」はホスピス、つまり多くの人が亡くなって行く場所である。そこの医者である徳永さんは、「安楽死」をめぐって対立する二つの考え方をどう見ているか。まずは、安楽死反対の立場の意見について。

「医療者は安楽死を許してはならないという定義に出会った。『どんな場合であっても、死がその体全体をおおわない限りは医療者は患者を生かすという至上命令の中で、できる最大限のことをその患者にすべきだ』これがその定義だった。しかしぼくは、この定義の正しさを正しすぎると思った。確かにそれは正しい。しかし、解決が不可能な事情が複雑にいりくんでいて、現場でそれを貫くことは難しい。」

では、こんどは安楽死や尊厳死を積極的に認めるアメリカの医師ケヴォーキアンの意見に対しては?

「本人の意思、家族の意思、看護師や医師の意思が一致していれば、何も問題ないではないか、という議論もありうると思います。しかし、私が思ったいちばん大きな問題は、ケヴォーキアンのなかに『とまどい』がないということでした。人が生きるか死ぬかというときに、『これはどうしよう』、『いまはやめようか』といった『とまどい』があってはじめて、物事は運んでいきます。『とまどい』を欠いて『正義』の理念だけでやると、とんでもないことになりかねません。……臨床の現場では、『正義』を振りかざすような人ははた迷惑です。『正義』は怖いものです。『正義』によらずに、その時々にみんなで判断をつくっていくしかありません。」

このように、どちらの立場にもある「正しさ」そのものを疑っているのである。じゃあ徳永さんはどっちつかずの安全なところにいる人なのか?そうではない。

「ですから、医師は自分が無罪になることを望んではいけません。万が一には有罪になることをも覚悟したうえで、どうやって『正義』を貫くかではなく、どうやって人々を納得させる方法をつくっていくか、が問われています。」

どこかで誰かが、徳永さんのことを「角のない豆腐くらい柔らかい人」と評していたが、ここにある彼の「覚悟」はすでに凄味さえおびているように思う。

この本の後半は、大学の先生である高草木光一さんとの往復書簡という体裁でさまざまな問答が続いているが、その中には、徳永さんが学生時代から関わりをもってきたハンセン病についての時間の蓄積を感じさせる書簡もあり、一読の価値があると思う。

徳永進の本 その1『どちらであっても』(かつて学校の「図書だより」に書いたもの)

この本の著者徳永進さんは鳥取県のお医者さん。長らく地域の病院に勤務していたが15年前、鳥取市内にホスピスケア(終末医療)を行う「野の花診療所」を開設した。そこで見送った人(つまり亡くなるまで世話をした人)は1000人を超えるらしい。

彼は、医療現場もまた「正解」や「正義」が固定されやすい世界だという。マニュアル言葉、告知、余命、副作用、生存率などなど。それらがスプリンクラーのように上から下に一方向の情報として患者さんに降りそそぐ。

そういう医療の息苦しさの中で、徳永さんは対立するように思える「反対言葉」に着目する。「〈生きる〉と〈死ぬ〉」「〈はい〉と〈いいえ〉」「〈泣く〉と〈笑う〉」などなど。せめて、その + と - の二極の振りはばの中から思いもかけず「湧いてくる言葉」を大切にしていきたいというのが彼の考えだ。そのようなできごとを折りにふれて書きつづったのがこの本である。

たとえば「伝える」(他動詞)ことと「伝わる」(自動詞)ことをめぐっての話。ある時、がんの女性の患者さんから「がんでないならがんでないと、はっきり言って」と詰め寄られた。彼は「ええ、がんじゃありません」ととっさに嘘をつく。「ああよかった。その一言が聞きたかった。」しかし女性は、そのあと家族を呼び、葬式のことやお墓のことを話していた。伝えなかったのに伝わったのだ。

「〈素手〉と〈手袋〉」の項では、認知症の母を家で看取った60才の男性の経験談もある。入浴の介護がむずかしく母も不安顔だったのだが、あることをしたら入浴がとてもスムーズになり、母も安心するようになったという。それは「ぼくも裸になって入ったんです。素っ裸で。」ということだった……。

「泣く」はずの死の中にも、しかし「笑い」がある。死んだと思って「よくがんばったよ」と家族が泣き出した直後、患者さんがまた息を吹き返す。「あっ、ごめんごめん」と、見守るみんなが目に涙を浮かべ、笑う。つまり「反対言葉」とは対立でなく解け合う世界なのだ。

こういう話、もっと学校でもなされなきゃと思うんだけどね。それこそ「正義」が固定されやすい本家の学校なんだから。(岩波書店 本体1700円)

読まずじまいの挨拶原稿

2日前、子どもたちが軽井沢で結婚式をあげた。当人たちを含め、ほとんどの人間にとってはじめての軽井沢であり、普段の暮らしとは違う新鮮な環境の中での式になった。私は親族代表として最後に挨拶をする役目だったので、原稿を準備していたのだが、当日は心のこもった挨拶が続き、私もその「場」に感応したことを言ったほうがよいと思い、準備していた原稿は読まずじまいに挨拶をした。その場はそれでよかったと思ったが、帰宅後、用意した原稿もまた、彼らに伝えたいことでもあったと思い直したので、ここに載せておく。

 

結婚式 親族代表あいさつ

今日は、遠路はるばる二人の結婚式にお越しいただき、ありがとうございました。といっても、私自身もそうでありまして、つまりは二人を含めて、ここにいる私たちのほとんど全員が遠路はるばるこの地にやってきまして、普段の生活とはまったくちがう、とても新鮮なハレの時間を、今日は送ってまいりました。

そして、すばらしい料理を含め、このような場所を用意してくださったユカワタンのスタッフの方、本当にありがとうございました。

今日は、少し恥ずかしいのですけど、二人に詩を贈ろうと思います。この詩は、たぶんみなさんよくご存じのはずです。結婚式での定番の詩だと言われているのですが、実は、私は今までいろんな結婚式に出てきたんですけど、この詩を聞いたことは一度もありません。ですから、今日はそれを読んでみたいと思います。

私が、なぜこの詩を二人に贈ろうと思ったかといいますと、それは二人が「医療」に関わる仕事をしているからです。

「医療」というのは「正しさ」を求められる仕事です。それは、まず患者さんたちからの声として現れますし、社会からも、そして日々職員同士の間でも、仕事のもっとも大切なこととして、追求されていることだと思います。それは、もちろん必要なことなのですが、今の世の中、その「正しさを求める声」が、なんだか少しへんなものにもなってきて「いのちを守るための正しさ」が、いつのまにか「相手をやっつけるための正しさ」になって、刃物のようにお互い相手を傷つけてしまうことも、増えてきてるんじゃないかと思います。そういう「へんな正しさ」が、これから二人が作っていく家庭の中にまで入りこんでほしくないな、と思ってこの詩を贈ろうと思いました。吉野弘の『祝婚歌』という詩です。

 

祝婚歌

二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派すぎないほうがいい

立派すぎることは

長持ちしないことだと気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで

疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気付いているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には

色目を使わず

ゆったり ゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で 風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと 胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そして

なぜ胸が熱くなるのか

黙っていても

二人にはわかるのであってほしい

 

こういうことを大事に思いながら、新しい暮らしをつくっていってほしいと思います。

私たちも、そういう二人を応援していきたいと思います。

今日は、ほんとうに、ありがとうございました。

「私がしたい本屋―いまの時点で」

◎ 屋号 『本屋UNLEARN(あんらーん)』

この屋号を見て、あえて「学ばない」というツッパッた意味の名前にした、と受け止める人もいると思うので、ひとこと説明をします。これは、もとはヘレン・ケラーが哲学者の鶴見俊輔さんに語った言葉です。その時、鶴見さんはアメリカのハーバード大学の学生でした。今から80年前のことです。

「17歳の夏休み、ニューヨークの日本図書館ではたらいているときに、ヘレン・ケラーが手話の通訳とともにその図書館をたずねてきた。館長が、宮城道雄の『春の海』のレコードをかけると、ヘレン・ケラーは、蓄音機に手をふれて、そのふるえから何かを感じて、音楽についての感想を話し、偶然、私に質問して、私がハーヴァードの学生だとこたえると、自分はそのとなりのラドクリフ女子大学に行った、そこでたくさんのことを『まなんだ』が、それからあとたくさん『まなびほぐさ』なければならなかった、と言った。
たくさんのことをまなび(LEARN)、たくさんのことをまなびほぐす(UNLEARN)。それは型どおりのセーターをまず編み、次に、もう一度もとの毛糸にもどしてから、自分の体型にあわせて編みなおすという状景を呼びさました。」

生きていくためには、ときにUNLEARNの方がLEARNより激しいものがありそうです。チマタでの自信に満ちあふれた攻撃的で型どおりの物言い、そういうものの中にあるバブルやフェイクを洗い流し、自分を裏切らない自分自身のヴォイスや考えをつくっていける場所にしたい。それが、私が本屋を開きたいと思った理由です。

◎ ロゴ

童話作家の長田真作さんにお願いをした結果、ロゴをつくっていただけることになりました。楽しみにしています。

◎ 本屋の特徴

〇 店舗ー約15坪、できればその2階を住居に。

〇 本の品ぞろえー約3000冊(多くの新刊本と少しの古本)    <人文書><医食住(生活)の本><地域本、リトルプレス、zine>等。

〇 SNSの活用ーできるだけ店の本の紹介を絶やすことなくアップし続ける。そして、週1回くらいの割合で、本にまつわる文章を載せ続ける。

〇 イベントー友人が催すミニコンサートや、講師を招いてのトークショーなど、無理のない範囲で宣伝も兼ねて行いたい。

〇 本屋と掛け算するものーいまのところ、私にとって縁があり、昨年夏の西日本豪雨災害で激甚な被害を受けたある地域の地ビールを、支援のために販売する。「本との掛け算」はとても大事なことなのですが、いまの私にはそれ以上の知恵はありません。工夫していきたいです。

◎ 簡単な事業計画

初期費用は、自己資金で用意します。
売上は、店を開くからには100万円以上を目指したい。とはいえ、100万円を売り上げても、利益は20万円ちょっと。としたら、それだけで生活費のすべてをまかなうことはできません。
ところが、それでも月100万円はまだ希望的観測の範囲であり、実際は、特に最初などは、月50万円の売り上げもないのではないか。赤字にならないよう、工夫していきます。
もちろん、始める以上、やめるつもりはまったくありません。屋号とロゴのプライドにかけても「口笛を吹きながら、キャベツばかりかじりながら」でも本屋を続けたいです。

◎ 店舗物件について

ずっと探しています。実は先週、何回も探していたある通りで、突然、気に入った物件(今までのベスト)が出てきました。必死で交渉したのですが、わずかな時間差で負けました。
さらに、工務店の人と物件を見ながら検討していく予定です。

◎ 取次との契約について

「本屋講座」の研修で東京に行った折り、取次の八木書店をはじめとする「神田村」の何店かを廻ったり「子どもの文化普及協会」さんに行き、話をお伺いしたりしています。ですから、その組み合わせになると思いますが、もう一度、日販の人とダメもとで交渉した上で決めたいと思います。

◎ いつ、開店?

とりあえず、自分で〆切をつくります。来年の1月で私は61歳になります。(私は、好きな作家である村上春樹さんと誕生日が10年違いの同じ月日なんです。その村上春樹さんが好きで私も好きな作家ジャック・ロンドンの誕生日も同じ月日です)。
早ければ、その誕生日までに。遅くとも、来年の5月の連休までには、わが『本屋UNLEARN』 を開店したいと思います。できなかったら、ごめんなさいですが、まあ、一応の目標です。
これを読んで、なにか、お気づきになるような点でもございましたら、どうか遠慮なくご連絡ください。では。

『アブサン物語』村松友視著

 

「おお、なつかしいなあ」と思った。何が? この本の中の時代の空気感が。

もちろん、まずは村松友視という名前自体の懐かしさでこの古本を買ったのだが、この中で著者と交流しているたとえば、赤瀬川原平、糸井重里、南伸坊、篠原勝之などといった名前は、私にとっては、自分が学生時代を過ごした東京の70年代の終わりから80年代前半にかけての空気そのもののような名前である。アブサンというネコと村松夫妻との20年に及ぶつきあいの日々が綴られたこの本のBGMには、その当時の空気感がしっかりと流れている。

この本はネコ好きにとってはたまらない1冊なのかもしれないが、そこまでではない私のようなものからすれば、この本の魅力というのは、アブサンに対する著者のつきあい方の迷いといった繊細な部分なのである。たとえば、多くの人が「あらあら、いけまちぇんねえ」などと、ネコを子どものように扱う言葉遣いをすることに著者は抵抗を感じてしまう。それは、人間の子どもに失礼なのではなく、アブサンに失礼じゃないか。あくまでアブサンは尊敬すべき伴侶であって、子どもの代用品なんかじゃない、と。だから、著者は、本当の友人に対するように「これはまあ話さなくてもいいことなんだけれど、しかし話さなければ伝わらないわけで……」などと「対等」に話しかけたりなんぞするのであるが、そのとたんアブサンは迷惑そうに、どこかに行ってしまう。いったいどういう対し方をすればいいのか、悩んでしまうのである。私にはそんな場面がなんともいえず面白い。

また著者は、自意識過剰でヘリクツ屋でもある。

「あのね、ネコっていうのは表情のあらわし方が屈折していてね、その場の様子だけじゃ判らないんだよ」(中略)「そっちの方が屈折しているんじゃない?」「俺が屈折しているんじゃないよ」「そうかな……」「屈折しているのが俺なんだ」「また始まった」カミさんは、あきれ顔で溜息をついた。

その自意識過剰は、ときにヘタレの捨て身の芸にもなる。

「こういうとき、カンニング気分でひそかに辞書を引くのが私の習慣になっている。辞書を引いて事が明らかになると、まるでそのことを十年も前から知っていたように喋り出す……これがもう私の性(さが)といってよいほど定着しているのだ。まったく、いろんなことをごまかして世間様への体裁をつくりまくり、己れの正体がバレないよう、日夜おずおずと上目遣いで作家をやっているワタクシでございます。」

アブサンは著者夫妻の家で21年間をともに過ごした後、1995年2月10日に亡くなる。そして、この『アブサン物語』の単行本が出るのが、その年の12月のことである。ところで、その1年というのは、いったいどういう年だったか。1月17日には、阪神淡路大震災が起こり、まだ、その余燼冷めやらずといった3月に、こんどはオウム真理教による地下鉄サリン事件が引き起こされたのである。連日のテレビ報道の陰惨さで、時代の空気は、この本の基調となる80年代の空気といったものから、一気に険しいものへと変わっていった年だった。今から思えば、著者がこの原稿を書いている間は、多くの人が、自分たちの社会が足元からひっくり返っていくような危機感や恐怖感を持った、その始まりの年だったのだが、そういう出来事がいっさい出てこないのである。これは、あきらかに著者の強い意思とみるべきだろう。

「アブサンの死の翌日、カミさんの目は腫れ上り、三日間というものもとに戻らなかった。私はカミさんに‘‘辰吉丈一郎の十二ラウンド目”という綽名をつけた。私たちは、庭を掘ってアブサンを埋め、カミさんが故郷の河原から拾って大事にして持っていたという握り拳くらいの小石を、墓石に見立てて上に置いた。」

世の喧騒をよそに、ひたすら「人生の重大な伴侶」だったアブサンとの時間を辿りなおした静かな本になった。

Cat’s MeoW BookSさんを訪れて本書を買ったことの記念に。

「処方」としての中井久夫ーその2はないかもしれない、その1-『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)を中心にー

とにかく中井久夫には御世話になってきたという感謝の念が私にはある。本の上での話である。実際にお会いしたことはない。通信制の高校勤務が長かったので、生徒の中には、不登校の生徒や、精神病院に入退院を繰り返している生徒が少なくない数おり、そういう生徒をどう理解したらいいのか、その生徒の将来を見すえて、どうつき合っていけばいいのか、それは私(たち)にとって持続的に緊急な課題でありつづけた。ほんとに、自分が何かできたわけでもなく、忸怩たる思いの方が強かったのだが、付き合いの中でどういうことに陥っちゃまずいのかという、そういうことの切実さで中井久夫を読み続けてきたような気がする。もちろん彼の文章は、すぐ目の前の患者さんの抱える困難な課題から離れないことが多いのだが、それだけでなく、同時にそういう病気を生み出す時代的背景や、文化的な土壌の問題まで掘りぬき、考え抜いた文章になっていた。

だから中井久夫を読むことは、対生徒のことだけでなく、精神的に病んでいく同僚のことや(どこの職場でもあることだろう、しかもその病んでいくことを個人的な問題とだけ捉えるのでなく、全員がそうなりうるものとしての病だということまで、どこまで考えられているか)、自分自身の精神的な危機を乗り切る大いなる助けにもなってきた。つまり、タイトルにも掲げたように、私にとって、副作用の100%ない上質な精神科の処方薬として、中井久夫はありつづけてきたのである。

なにしろ膨大な業績を残してきた人だし、多くの刺激的な著作もあるので、どこから語ればいいのか、書くべきことが多すぎて、かえって何も書けなくなってしまうのだが、とりあえず、『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)を中心に語ってみる。というのは、この本は、それまでの中井久夫の考え方を基にした上で、さらに阪神淡路大震災を経て、トラウマの治療や認知症の治療など、新たな視点による臨床経験を重ねた後、それまでの何十年かの統合失調症の治療も含めて、もう一度、自らの精神医学を総合的にとらえ直して書かれたものだからである。これは、驚くべきことである。その必要性にいやおうなく巻き込まれたからとはいえ、60歳代になってから、トラウマ治療という未踏の領域を開拓し、さらにその視点から見えてきたことを生かして、過去の自らの治療を全面的に考え直して未来に資そうとするのである。いったい誰がこんな巨大な知的肺活量をもっているだろうか。この1冊を語ることが、ある意味、中井久夫を語ることにもなるゆえんだろう。

ではあるのだが、そこはそこ、紹介するのがこの私なので、ヘタな理屈でまとめるよりも、むしろ、はっとした箴言のような言葉を引用しながら、この本の周りを散歩してみたい。

「友人の神田橋條治というと、非常にいい勘をしている治療者なんだが、彼は鬱病では、『いちばん得意と本人が思っている能力がまっさきにやられるからつらいんだ』といっている。そのひそみに倣うと、統合失調症は、発病の過程で『自分がかねがね持ちたくて持てないと思っていた能力が向こうからやってきてやすやすと手に入りそうに思えてくるから誘惑的だ』といいたい。だから、治りそうなときには『ほんとに治っていいの、さびしいよ、ただのひとになるんだよ』と、念をおして、『それでも治ったほうがいい』って心底からいうまで待たないと治っても長つづきしない。」(P10)

「自己と太陽は長時間見つめられない」(P29)

「九九を忘れても、モナリザを誰が描いたか忘れても、エピソード的記憶がしっかりしておれば、その人は人間である。(中略)かつて私は、老人性痴呆の初期において『エピソード記憶の煤払い』が重要であることを主張した」(P40)

この本の1つの大きなテーマは「記憶」である。というより現代の精神医療においては「記憶」をどう考えるか、ということがずいぶん前景化しているのではないか。「忘れがひどくなること」「記憶がなくなっていくこと」つまり、認知症の問題が一つ。そして、それとは正反対に、忘れたいのに、いつまでもその出来事にかさぶたができず、それどころか、相変わらず生々しいままにフラッシュバックが心身を襲ってくるトラウマの問題。

そもそも「記憶」というのは人類にとってどういう必要があって備わっているシステムなのか。そして、人の「記憶」と「人格」の関係とは何か。どういう「記憶」を保っていることが「人格」を保つことにつながるのか。

「どうして、幼児型記憶が外傷性記憶と多くの点で同じスタイルをとるのであろうか。この疑問の答えは一つであると私は思う。すなわち幼児型の記憶は何よりもまず危険への警報のためにある。そもそも記憶は警告の一つの形として誕生したといえるかもしれない。」(P54)

「自己は他者からの贈り物である」(P56)

「幼児期に柔らかな布との接触を経験しないチンパンジーが成体になったときに性行為ができないという有名な実験を想起したい。『ネグレクト』が重大なトラウマであるのは、体験の連続性の成立を障害することにあるのではないだろうか。それは自己史連続体成立の障害(刹那的現在人性への偏り)に至るのであろう。(P70)

「日本軍は戦争神経症を天皇の軍隊にあるまじきこととし、もっぱら『シュラークテラピー』(殴打療法)を行っていた。その治癒像は、上級者にへつらい、下級者には威張る、何とも嫌な人格への変換だった。これはトラウマによるトラウマの『治療』である」(P86)

「被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。(中略)その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。」(P123)

「解離性機構について、私は最近、猛獣狩りを趣味とする人からライオンに食べられかけた人の体験談を聞くことができた。彼は、危ういところで仲間がライオンを射殺して、ライオンの口から重傷を負って救い出されたのだが、当人の談によれば、むしろ、恍惚として快感に近く、また体外離脱体験が生じてきて、食べられている自分をひとごとのように眺めていたそうである。」(P171)

引用が、多すぎるだろうか? では、少し趣きを変えて、中井久夫が、自分が決定的に治療に失敗した例としてあげているケースを見てみよう。そういう厳しい現実もある。1人の躁鬱病女性の自殺を許してしまった例である。そのときの自分の取り組み方を振り返って、彼は六点の反省を率直にあげている。その最後の理由を、これも引用だが掲げておく。

「最後に、自殺を覚悟した患者には、治療者に対する麻痺作用がある。いくら手を伸ばしても患者に届かないという感覚がある。(中略)患者が、治療者よりも高みに立って、穏やかに治療者を慰謝し、慰撫するのである。『せんせい、ごくろうさまだけど、もういいのよ、私は……、せんせい、そんなにいっしょうけんめいにならなくても……』。この時、卑小な無力な治療者は患者を神々しく仰ぎみるのである。患者が神々しくなどみえては危ない。しかし、この麻痺作用から身を振りほどくことは、治療者にかなりの気力が満ちていなければ実にむずかしい。」(P275)

中井久夫には、また、戦争に関わるエッセイが非常に多いことも大きな特徴である。そして、科学的データとともに、普段は普通の生活を送っている人間が、戦争や犯罪に思わず「踏み越え」てしまう、その一瞬の心理を実に説得力豊かに描きだしている。これは、まさに今の私たちの姿ではないのか。

「太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、『もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである』という感覚を私の周囲の多くの人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に『一言で言えばざまあみろということであります』と言ったのは、この感覚からの解放感である。(中略)東条英機首相も、昭和天皇も、この重圧によって開戦へと流されていった。東条の神経衰弱状態は、開戦と同時に、軽躁状態に急変する。天皇を初めとする大多数の国民もまた。」(P308)

「読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その時限りであるが精神衛生によいのである。」(P312)

「『踏み越え』を容易にする制度を経験すること。これは、多くの軍隊が行うことである。一般兵士の『発砲率』は国によらず15~20パーセントと低かった。第二次大戦後、米陸軍は心理学的工夫によって朝鮮戦争において55パーセント、ベトナム戦争において実に95パーセントの発砲率を達成している。その副作用は、帰還兵が社会適応不可能となったことである。」(P316)

「人を殺す者は自分をも殺すのだということは、ポー、ボードレールから神戸のA少年までが語っていることである。」(P321)

「強迫症の心性には規則の正確な遵守、一分の隙もない礼儀正しさ、一点の汚点も許さない清潔さの仮面の裏に意地悪な幻想、血なまぐさい空想が仄見える」(P380)

少し数の多い引用になったが、これだけでも私の言う「『処方』としての中井久夫」ということは、おわかりいただけるのではないだろうか。

『コルシア書店の仲間たち』須賀敦子著

「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない。」

思わず「うーん」と考え込まずにはいられないこの言葉。私はこの言葉をどこかで知り、そして誰の言葉かわからないままに、かつて同僚の送別会での送る言葉として紹介したこともあった。昨年、ふと本屋で本をパラパラめくっていると、いきなりこの言葉が入ってくるじゃないか。「ミラノ」という題のウンベルト・サバの詩、冒頭の言葉はその最後の二行としてあった。訳者は須賀敦子、とある。

こうして私は、この詩を扉に掲げてあるこの本を読むことになったのだが、一読、これは自分のために書かれた本ではないかと思い、続けて彼女の生前に出版された5冊の本を読み、そしてやがては文庫本の須賀敦子全集などをひっくり返すようになったのである。

コルシア・デイ・セルヴィ書店。もとはと言えば、第二次世界大戦末期、ドイツ軍に占領されたミラノで、知識人による対独レジスタンスが母体となって生まれた書店。戦後は、「あたらしい神学」のもと、熱病のように有機的な共同体としての生き方を追求しようとしたカトリック左派の試みの場所。

著者は、日本にいる時からこの書店につよく惹かれ、イタリア留学が決まった時、この書店の人に会うことを大きな目標にした。そして、留学後、すぐにかかわりを持ちはじめ、やがては、書店の中心人物の一人であるペッピーノと結婚、夫婦で書店の活動に参加していくことになる。しかし、数年後ペッピーノは病気で亡くなり、やがて彼女は1971年に日本へ帰国する。

このように、著者にとっては実質的に10年あまりの関わりであった「コルシア書店」だが、この本では、その中心人物であったあの人この人について、あるいは、激しく移り変わる時代の流れの中で変貌していく書店の運命のいくつかのエピソードが、時を経た落ち着きのある筆致で語られる。しかし、著者がこれらを書いたのは、日本に帰国してすぐのことではない。それから実に20年も経った、著者が60歳を過ぎてからのことだ。この本で注目すべきは、たしかにその「時間」というものかもしれない。

この本の中で著者は、ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説についての感想を、登場人物の1人から「きみは、どう思う?」と聞かれて答える箇所がある。「自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている」と。この評は、まったくそのまま、この本の内容にもあてはまることだ。

また、著者は別の場所で、ある若者の小説について、こうも語っている。「十分な客観化に到らないで、作者の個人的な嘆きが、シチリアの泣き女の葬送唄のように重苦しくたゆたって、作品の印象を弱めていた。」

おそらく、20年という「時」を経ずしてこの本が書かれていたならば、それは、あくまでも「須賀敦子のイタリア体験記」ではあっても、その本を読んだ人間が「これはまるで自分のことが書かれてある」という感想にまでには到らなかったのではないか。

「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。(中略)それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」

この「あとがきにかえて」の最後の部分を、私は何回読み返しただろうか。ここには「時間」という濾過装置によって、したたり落ちてきたものだけを拾い集めた結晶のような文体がある。