追悼 加藤典洋さん

 

追悼 加藤典洋さん
ツイッターでは、加藤さんが亡くなった当日、ショックを受けたままに書き散らしてしまったので、ここではもう少し落ち着いて書いてみる。
加藤さんが亡くなるなんて本当に考えてもみなかった。それこそ数日前に『太宰と井伏』の文庫本を買ってきて読んでいたのだが、入院されていたとはいえ、その入院先で「文芸文庫版のためのあとがき」も書き、そのあとの「年譜」にも最近の様子がくわしく書かれていたので、またきっと旺盛な執筆活動が再開されるのだろうと思っていた。肉親の死以外でこれほどのショックを受けるというのは珍しい。しかも一度も会ったことがない人なのに。
細い道を歩んできた人だと思う。全共闘運動の後、一度言葉を失っている人でもある。その沈黙の後に、少しづつ文章を発表してきた。これは村上春樹だってそうだろうし、中野翠も糸井重里も高橋源一郎だってそうだろう。もっと世間に流通している発想で書けば簡単だっただろうが、そうはしなかった。いつも根本から考え起こした。数年前の『戦後入門』もそういう本だったが、原武史だったかが書評で「この人を孤立させてはならない」という意味のことを書いていて、ほんとにそうだ、と思った記憶がある。
この人の考えの、何がそれほど貴重なのだろう。
一つには、新しい「公共性」を作り出すためには、一見それとは逆の、人間の「私利私欲」の底の底まで降りていき、それをつきつめていくことが大事なのだ、という考え方だ。そこから「公的なもの」が出てくるのだ、と。彼はそのことを、歴史や哲学や文学作品を通して繰り返し繰り返し根拠づけようとしてきた。加藤さんの最も難解な本だと思われる『戦後的思考』(講談社文芸文庫)もその試みとして読むことができると思う。戦争の時は「滅私奉公」が叫ばれたし、革命運動や反差別の運動の中にも、はたまたグローバル企業の働き方のロールモデルや「学校の部活」にさえ「公共」という名の下で同じ精神の形が要求されている。そういう精神の共同体の行きつく先は「ファシズム」以外にはないのに、私たちはいとも簡単にその精神にからめとられてしまう存在でもある。むしろ、健全で柔軟な「私性」を持つこと、そこから「公共」を作っていくことが大事だとする考え方だろう。
それから、それとつながっているとは思うのだが、「正しいこと」というのは、むしろ自分たちの「まちがい」から、その痛切なものから生み出されるものであって、「道徳的な正しさ」を積み重ねていくだけでは決して「正しさ」には到達しないということ。そういう「正しさ」というのはむしろ人を裁く思想になりこそすれ、生き延びていくための思想にはならないのではないか。
非常に雑駁ではあるが、私はこのような加藤典洋さんの考え方に、とても貴重なものを感じ取ってきたのである。
と、このように書くと、えらく理屈っぽく感じられるかもしれないが、実際に読んでみるとそんなことはない、たとえば加藤さんの書くポートレートなどは、ある人物の一瞬のしぐさを描くことで、その人の仕事の本質を、その人の本を読むのとは別のしかたで大きく照らし出す芸があった。また、鶴見俊輔の本に寄せて「火気注意」と「火の用心」の違いを説明するところからその本の特徴をつかみだしているように、たとえ話もとても卓抜だった。
彼の死が私に与えたショックの中には、どこかで自分が「この人を孤立させてしまった」ために彼の死期を早めてしまったのではないか、ということが含まれていたのかもしれない。そう思わせるような人だった。
加藤さんのご冥福を心からお祈りいたします。

 

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