「処方」としての中井久夫ーその2はないかもしれない、その1-『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)を中心にー

とにかく中井久夫には御世話になってきたという感謝の念が私にはある。本の上での話である。実際にお会いしたことはない。通信制の高校勤務が長かったので、生徒の中には、不登校の生徒や、精神病院に入退院を繰り返している生徒が少なくない数おり、そういう生徒をどう理解したらいいのか、その生徒の将来を見すえて、どうつき合っていけばいいのか、それは私(たち)にとって持続的に緊急な課題でありつづけた。ほんとに、自分が何かできたわけでもなく、忸怩たる思いの方が強かったのだが、付き合いの中でどういうことに陥っちゃまずいのかという、そういうことの切実さで中井久夫を読み続けてきたような気がする。もちろん彼の文章は、すぐ目の前の患者さんの抱える困難な課題から離れないことが多いのだが、それだけでなく、同時にそういう病気を生み出す時代的背景や、文化的な土壌の問題まで掘りぬき、考え抜いた文章になっていた。

だから中井久夫を読むことは、対生徒のことだけでなく、精神的に病んでいく同僚のことや(どこの職場でもあることだろう、しかもその病んでいくことを個人的な問題とだけ捉えるのでなく、全員がそうなりうるものとしての病だということまで、どこまで考えられているか)、自分自身の精神的な危機を乗り切る大いなる助けにもなってきた。つまり、タイトルにも掲げたように、私にとって、副作用の100%ない上質な精神科の処方薬として、中井久夫はありつづけてきたのである。

なにしろ膨大な業績を残してきた人だし、多くの刺激的な著作もあるので、どこから語ればいいのか、書くべきことが多すぎて、かえって何も書けなくなってしまうのだが、とりあえず、『徴候・記憶・外傷』(みすず書房)を中心に語ってみる。というのは、この本は、それまでの中井久夫の考え方を基にした上で、さらに阪神淡路大震災を経て、トラウマの治療や認知症の治療など、新たな視点による臨床経験を重ねた後、それまでの何十年かの統合失調症の治療も含めて、もう一度、自らの精神医学を総合的にとらえ直して書かれたものだからである。これは、驚くべきことである。その必要性にいやおうなく巻き込まれたからとはいえ、60歳代になってから、トラウマ治療という未踏の領域を開拓し、さらにその視点から見えてきたことを生かして、過去の自らの治療を全面的に考え直して未来に資そうとするのである。いったい誰がこんな巨大な知的肺活量をもっているだろうか。この1冊を語ることが、ある意味、中井久夫を語ることにもなるゆえんだろう。

ではあるのだが、そこはそこ、紹介するのがこの私なので、ヘタな理屈でまとめるよりも、むしろ、はっとした箴言のような言葉を引用しながら、この本の周りを散歩してみたい。

「友人の神田橋條治というと、非常にいい勘をしている治療者なんだが、彼は鬱病では、『いちばん得意と本人が思っている能力がまっさきにやられるからつらいんだ』といっている。そのひそみに倣うと、統合失調症は、発病の過程で『自分がかねがね持ちたくて持てないと思っていた能力が向こうからやってきてやすやすと手に入りそうに思えてくるから誘惑的だ』といいたい。だから、治りそうなときには『ほんとに治っていいの、さびしいよ、ただのひとになるんだよ』と、念をおして、『それでも治ったほうがいい』って心底からいうまで待たないと治っても長つづきしない。」(P10)

「自己と太陽は長時間見つめられない」(P29)

「九九を忘れても、モナリザを誰が描いたか忘れても、エピソード的記憶がしっかりしておれば、その人は人間である。(中略)かつて私は、老人性痴呆の初期において『エピソード記憶の煤払い』が重要であることを主張した」(P40)

この本の1つの大きなテーマは「記憶」である。というより現代の精神医療においては「記憶」をどう考えるか、ということがずいぶん前景化しているのではないか。「忘れがひどくなること」「記憶がなくなっていくこと」つまり、認知症の問題が一つ。そして、それとは正反対に、忘れたいのに、いつまでもその出来事にかさぶたができず、それどころか、相変わらず生々しいままにフラッシュバックが心身を襲ってくるトラウマの問題。

そもそも「記憶」というのは人類にとってどういう必要があって備わっているシステムなのか。そして、人の「記憶」と「人格」の関係とは何か。どういう「記憶」を保っていることが「人格」を保つことにつながるのか。

「どうして、幼児型記憶が外傷性記憶と多くの点で同じスタイルをとるのであろうか。この疑問の答えは一つであると私は思う。すなわち幼児型の記憶は何よりもまず危険への警報のためにある。そもそも記憶は警告の一つの形として誕生したといえるかもしれない。」(P54)

「自己は他者からの贈り物である」(P56)

「幼児期に柔らかな布との接触を経験しないチンパンジーが成体になったときに性行為ができないという有名な実験を想起したい。『ネグレクト』が重大なトラウマであるのは、体験の連続性の成立を障害することにあるのではないだろうか。それは自己史連続体成立の障害(刹那的現在人性への偏り)に至るのであろう。(P70)

「日本軍は戦争神経症を天皇の軍隊にあるまじきこととし、もっぱら『シュラークテラピー』(殴打療法)を行っていた。その治癒像は、上級者にへつらい、下級者には威張る、何とも嫌な人格への変換だった。これはトラウマによるトラウマの『治療』である」(P86)

「被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。(中略)その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。」(P123)

「解離性機構について、私は最近、猛獣狩りを趣味とする人からライオンに食べられかけた人の体験談を聞くことができた。彼は、危ういところで仲間がライオンを射殺して、ライオンの口から重傷を負って救い出されたのだが、当人の談によれば、むしろ、恍惚として快感に近く、また体外離脱体験が生じてきて、食べられている自分をひとごとのように眺めていたそうである。」(P171)

引用が、多すぎるだろうか? では、少し趣きを変えて、中井久夫が、自分が決定的に治療に失敗した例としてあげているケースを見てみよう。そういう厳しい現実もある。1人の躁鬱病女性の自殺を許してしまった例である。そのときの自分の取り組み方を振り返って、彼は六点の反省を率直にあげている。その最後の理由を、これも引用だが掲げておく。

「最後に、自殺を覚悟した患者には、治療者に対する麻痺作用がある。いくら手を伸ばしても患者に届かないという感覚がある。(中略)患者が、治療者よりも高みに立って、穏やかに治療者を慰謝し、慰撫するのである。『せんせい、ごくろうさまだけど、もういいのよ、私は……、せんせい、そんなにいっしょうけんめいにならなくても……』。この時、卑小な無力な治療者は患者を神々しく仰ぎみるのである。患者が神々しくなどみえては危ない。しかし、この麻痺作用から身を振りほどくことは、治療者にかなりの気力が満ちていなければ実にむずかしい。」(P275)

中井久夫には、また、戦争に関わるエッセイが非常に多いことも大きな特徴である。そして、科学的データとともに、普段は普通の生活を送っている人間が、戦争や犯罪に思わず「踏み越え」てしまう、その一瞬の心理を実に説得力豊かに描きだしている。これは、まさに今の私たちの姿ではないのか。

「太平洋戦争の始まる直前の重苦しさを私はまざまざと記憶しており、『もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである』という感覚を私の周囲の多くの人が持っていた。辰野隆のような仏文学者が開戦直後に『一言で言えばざまあみろということであります』と言ったのは、この感覚からの解放感である。(中略)東条英機首相も、昭和天皇も、この重圧によって開戦へと流されていった。東条の神経衰弱状態は、開戦と同時に、軽躁状態に急変する。天皇を初めとする大多数の国民もまた。」(P308)

「読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その時限りであるが精神衛生によいのである。」(P312)

「『踏み越え』を容易にする制度を経験すること。これは、多くの軍隊が行うことである。一般兵士の『発砲率』は国によらず15~20パーセントと低かった。第二次大戦後、米陸軍は心理学的工夫によって朝鮮戦争において55パーセント、ベトナム戦争において実に95パーセントの発砲率を達成している。その副作用は、帰還兵が社会適応不可能となったことである。」(P316)

「人を殺す者は自分をも殺すのだということは、ポー、ボードレールから神戸のA少年までが語っていることである。」(P321)

「強迫症の心性には規則の正確な遵守、一分の隙もない礼儀正しさ、一点の汚点も許さない清潔さの仮面の裏に意地悪な幻想、血なまぐさい空想が仄見える」(P380)

少し数の多い引用になったが、これだけでも私の言う「『処方』としての中井久夫」ということは、おわかりいただけるのではないだろうか。

『コルシア書店の仲間たち』須賀敦子著

「人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない。」

思わず「うーん」と考え込まずにはいられないこの言葉。私はこの言葉をどこかで知り、そして誰の言葉かわからないままに、かつて同僚の送別会での送る言葉として紹介したこともあった。昨年、ふと本屋で本をパラパラめくっていると、いきなりこの言葉が入ってくるじゃないか。「ミラノ」という題のウンベルト・サバの詩、冒頭の言葉はその最後の二行としてあった。訳者は須賀敦子、とある。

こうして私は、この詩を扉に掲げてあるこの本を読むことになったのだが、一読、これは自分のために書かれた本ではないかと思い、続けて彼女の生前に出版された5冊の本を読み、そしてやがては文庫本の須賀敦子全集などをひっくり返すようになったのである。

コルシア・デイ・セルヴィ書店。もとはと言えば、第二次世界大戦末期、ドイツ軍に占領されたミラノで、知識人による対独レジスタンスが母体となって生まれた書店。戦後は、「あたらしい神学」のもと、熱病のように有機的な共同体としての生き方を追求しようとしたカトリック左派の試みの場所。

著者は、日本にいる時からこの書店につよく惹かれ、イタリア留学が決まった時、この書店の人に会うことを大きな目標にした。そして、留学後、すぐにかかわりを持ちはじめ、やがては、書店の中心人物の一人であるペッピーノと結婚、夫婦で書店の活動に参加していくことになる。しかし、数年後ペッピーノは病気で亡くなり、やがて彼女は1971年に日本へ帰国する。

このように、著者にとっては実質的に10年あまりの関わりであった「コルシア書店」だが、この本では、その中心人物であったあの人この人について、あるいは、激しく移り変わる時代の流れの中で変貌していく書店の運命のいくつかのエピソードが、時を経た落ち着きのある筆致で語られる。しかし、著者がこれらを書いたのは、日本に帰国してすぐのことではない。それから実に20年も経った、著者が60歳を過ぎてからのことだ。この本で注目すべきは、たしかにその「時間」というものかもしれない。

この本の中で著者は、ナタリア・ギンズブルグの自伝的な小説についての感想を、登場人物の1人から「きみは、どう思う?」と聞かれて答える箇所がある。「自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている」と。この評は、まったくそのまま、この本の内容にもあてはまることだ。

また、著者は別の場所で、ある若者の小説について、こうも語っている。「十分な客観化に到らないで、作者の個人的な嘆きが、シチリアの泣き女の葬送唄のように重苦しくたゆたって、作品の印象を弱めていた。」

おそらく、20年という「時」を経ずしてこの本が書かれていたならば、それは、あくまでも「須賀敦子のイタリア体験記」ではあっても、その本を読んだ人間が「これはまるで自分のことが書かれてある」という感想にまでには到らなかったのではないか。

「コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。(中略)それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」

この「あとがきにかえて」の最後の部分を、私は何回読み返しただろうか。ここには「時間」という濾過装置によって、したたり落ちてきたものだけを拾い集めた結晶のような文体がある。

『日本の同時代小説』斎藤美奈子著(岩波新書)

言われてみればたしかに、最近の文学までを扱っている文学史の本っていうのは読んだことがない。著者も言うように、中村光夫も奥野健男も篠田一士もドナルド・キーンも、カバーしてるのは1960年代末まで。加藤周一のも、そう。それから約50年。社会のワク組みも溶融し、文学と呼ばれるものも流動化した。それこそ後世の文学史家はこの50年を「そもそも歴史がなくなった最初の時代」とかなんとか書くかもしれない。現れてはすぐに消費されて消える<永遠の現在>だけになった、と。しかしそのことへの物足りなさから、著者は果敢にも文学史空白のこの50年間の文学を同時代小説として性格付けしていこうとするのである。別の場所でだれかが「読みも読んだり、書きも書いたり」と評していたが、まったくそのとおり。いったい、この人以外の誰が、こんな無謀なことに挑戦するだろうかという思いがする。私にしたって読んできたのは、両村上と高橋源一郎や川上弘美ぐらいまでか。あとの膨大な作家の膨大な作品の数々は、たしかにどこかで「社会現象」や「商品」としての名前を聞いてきただけの存在だ。そのゲンダイブンガクの森を斎藤美奈子は疾走する。

その森の中から、廃れてきたはずの「私小説」や「プロレタリア文学」が形を変えて現代も生き延びていること、JKなどと呼ばれることも含めての「少女」の存在の大きさ、そして井上ひさしの『吉里吉里人』から中村文則の『R帝国』まで「国家論」を含む「架空の国の歴史」の系譜があること、などを骨太に指摘していく。

そして、相変わらずといっていいのだろうか。特に男性作家に対するおちょくり方の芸にさらに磨きがかかってきているようだ。「保坂和志が『ホンワカ系』、藤沢周が『トンガリ系』なら、町田康は『ウダウダ系』。」あるいは、村上龍の「『ラブ&ポップ』は渋谷の女子高生に取材した、論評のしようがないオヤジ目線の風俗小説です。」とか「DV男は処刑すればいいという緒方夫人や青豆の認識は、復讐の仕方としては最低最悪で(現実を見誤るという点では有害ですらあります)、村上春樹がいかにこうした問題に不注意かを示しているのです」とか「松浦寿輝は、偏差値高い系、気が滅入る系の実験小説の書き手でしたが」とか。思わず笑ってしまうほどのツッパリ芸は健在だ。

と言っても本書後半の筆致はしだいに重くなって行く。それは今、私たちが直面している「現実」を、作家たちが満身創痍で表現しようとしているからだ。「『希望の国のエクソダス』の語り手はいいます。<中流という階級が消滅しつつあった。経済格差に慣れていない大多数の日本人にとって、それは耐えがたいことだった。八割から九割の国民が没落感に囚われ、羨望と嫉妬が露わになった。人々は怒りに駆り立てられ、無力感に襲われた。当然のことのように新しいナショナリズムが起こり、いくつかの新右翼の政党が生まれ、無力感に沈む人々は新興宗教に吸い込まれていった。>」村上龍のこの小説は20年前の発表。まるで今のことのようだ。

そして、2011年3月11日がやってくる。

震災後の小説の特徴は、明らかに「ディストピア小説の時代」だと著者は言う。「ディストピア」とは「ユートピア」の反対語。もちろんディストピアの流行は原発事故だけが原因ではなく、時代の空気そのものが誘発要因で、それは現実の厳しさに響きあうものとして出てきたもの。ではあるのだが、そのディストピア小説は一方で読後絶望しか残さないので、ただでさえ絶望的な現実に絶望の上塗りをしてどうすんだ、という批判も生まれてくる。厳しい時代に厳しい小説なんか誰も読みたかない、むしろ読者は「愛と涙と感動」を求めて『セカチュー』や『永遠の0』あるいは『難病もの』や『障害者もの』を、こぞって読んでいるではないか。

著者はこういう声に応えるように『東日本大震災後文学論』の書き手の一人・飯田一史の言葉を掲げる。<震災後文学は「被」の文学だった。被災者・被害者・被曝者ばかりを描いてきた。直接的な設定としての被災者・被害者・被曝者だけではなく、精神的な意味でのそれらを、である。しかし本当は、その先を示さなければならなかった。道を自らきりひらき、対話のなかで歩む姿を描くことも、必要だったのだ。>

そして最後に著者はこの本をこう締めくくる。「絶望をばらまくだけでは何も変わらない。せめて『一矢報いる姿勢』だけでもみせてほしい。」と。そして、「冒険を恐れるな。次代の文学史はそこからはじまるように思います。」とも。

追悼 加藤典洋さん

 

追悼 加藤典洋さん
ツイッターでは、加藤さんが亡くなった当日、ショックを受けたままに書き散らしてしまったので、ここではもう少し落ち着いて書いてみる。
加藤さんが亡くなるなんて本当に考えてもみなかった。それこそ数日前に『太宰と井伏』の文庫本を買ってきて読んでいたのだが、入院されていたとはいえ、その入院先で「文芸文庫版のためのあとがき」も書き、そのあとの「年譜」にも最近の様子がくわしく書かれていたので、またきっと旺盛な執筆活動が再開されるのだろうと思っていた。肉親の死以外でこれほどのショックを受けるというのは珍しい。しかも一度も会ったことがない人なのに。
細い道を歩んできた人だと思う。全共闘運動の後、一度言葉を失っている人でもある。その沈黙の後に、少しづつ文章を発表してきた。これは村上春樹だってそうだろうし、中野翠も糸井重里も高橋源一郎だってそうだろう。もっと世間に流通している発想で書けば簡単だっただろうが、そうはしなかった。いつも根本から考え起こした。数年前の『戦後入門』もそういう本だったが、原武史だったかが書評で「この人を孤立させてはならない」という意味のことを書いていて、ほんとにそうだ、と思った記憶がある。
この人の考えの、何がそれほど貴重なのだろう。
一つには、新しい「公共性」を作り出すためには、一見それとは逆の、人間の「私利私欲」の底の底まで降りていき、それをつきつめていくことが大事なのだ、という考え方だ。そこから「公的なもの」が出てくるのだ、と。彼はそのことを、歴史や哲学や文学作品を通して繰り返し繰り返し根拠づけようとしてきた。加藤さんの最も難解な本だと思われる『戦後的思考』(講談社文芸文庫)もその試みとして読むことができると思う。戦争の時は「滅私奉公」が叫ばれたし、革命運動や反差別の運動の中にも、はたまたグローバル企業の働き方のロールモデルや「学校の部活」にさえ「公共」という名の下で同じ精神の形が要求されている。そういう精神の共同体の行きつく先は「ファシズム」以外にはないのに、私たちはいとも簡単にその精神にからめとられてしまう存在でもある。むしろ、健全で柔軟な「私性」を持つこと、そこから「公共」を作っていくことが大事だとする考え方だろう。
それから、それとつながっているとは思うのだが、「正しいこと」というのは、むしろ自分たちの「まちがい」から、その痛切なものから生み出されるものであって、「道徳的な正しさ」を積み重ねていくだけでは決して「正しさ」には到達しないということ。そういう「正しさ」というのはむしろ人を裁く思想になりこそすれ、生き延びていくための思想にはならないのではないか。
非常に雑駁ではあるが、私はこのような加藤典洋さんの考え方に、とても貴重なものを感じ取ってきたのである。
と、このように書くと、えらく理屈っぽく感じられるかもしれないが、実際に読んでみるとそんなことはない、たとえば加藤さんの書くポートレートなどは、ある人物の一瞬のしぐさを描くことで、その人の仕事の本質を、その人の本を読むのとは別のしかたで大きく照らし出す芸があった。また、鶴見俊輔の本に寄せて「火気注意」と「火の用心」の違いを説明するところからその本の特徴をつかみだしているように、たとえ話もとても卓抜だった。
彼の死が私に与えたショックの中には、どこかで自分が「この人を孤立させてしまった」ために彼の死期を早めてしまったのではないか、ということが含まれていたのかもしれない。そう思わせるような人だった。
加藤さんのご冥福を心からお祈りいたします。